vol.6 ぼくに訪れている「死」というテーマ
このところ、ぼくの中に訪れている直感・予感について書いてみました。
こんにちは!キクティーです。
「キクティーからのおたより」、第6号をお届けします。
初回から読んでくれている皆さん、ありがとうございます。
今回から読んでくださっている皆さん、これからよろしくお願いします。
このニュースレターは、
ぼくが
書きたいときに
書きたいことを
書く場所です。
さて、ニュースレターを書きたいなと思いつつ、
なかなかタイミングが掴めずにいました。
そんな中で、
今日は少し、死や魂にまつわる話を書きます。
人によっては、読むタイミングによって、
重たく感じるかもしれません。
なので、いまは読みたくないなと思ったら、
その時は無理をしないでくださいね。
ただ、いつか必要になったときに、
「あ、そういえば、キクティーがこんなことを書いていたな」
と思い出してもらえたらいいなと思って、
書いてみることにしました。
正直に言うと、
この話をニュースレターで書くことには、
少しためらいもありました。
死の話は、とても個人的かつ痛みも呼び起こしやすいテーマです。
近しい人を亡くしたばかりの方もいるかもしれないし、
今まさに、大切な人のいのちと向き合っている方もいるかもしれません。
だから、決して軽く扱いたいわけではありません。
ただ、それでも、
最近ぼく自身が何度もこのテーマに触れていて、
どうやら、いまのぼくにとって、
このテーマに触れるタイミングが来ているのかもしれない。
そんなふうに感じています。
なので今日は、
何かの答えとしてではなく、
ぼくがいま感じていることのわかちあいとして、
書いてみようと思います。
今回書いてみたいのは、
亡くなった方の魂を、静かに見送るためのセレモニーについてです。
エナジーワークの中では、
それを「ラストライツ(Last rites)」と呼んでいます。
セレモニーといっても、
何か大げさな儀式をするわけではありません。
そして、医療や葬儀、宗教的な儀式の代わりになるものでもありません。
ぼくの感覚では、
亡くなった方の魂に対して、
「あなたの魂の歩みはここにありましたね」
「次の旅に向けて、必要なものだけを持っていけますように」
「もう必要のないものは、ここに置いていって大丈夫ですよ」
「あなたの魂が、あなたらしく進んでいけますように」
と、静かに見送るスペースに近いです。
そして同時に、
残された側の中にある悲しみや後悔、
言えなかったこと、手放しきれない思いにも、
そっと光が当たっていくような時間でもあります。
何かを無理に変えようとしたり、
悲しみを急いで癒そうとしたりするのではなく、
亡くなられた方と、
こちら側に残っているぼくたちのあいだにあるものが、
自然にほどけていく。
そんな体験として、ぼくは受け取っています。
なぜ、このタイミングで書こうと思ったのか。
ひとつには、最近、SNSなどで、
大切な方が亡くなられたというシェアを
目にすることが増えたからです。
父の件があってから、
ぼくの目に入ってくる世界も、
少し変わったように感じています。
病気のこと、リハビリのこと、介護のこと。
そうした情報を調べる時間が増えたから、
SNSにも自然と、死や病にまつわる投稿が
流れてくるようになりました。
ただ、それだけではなく、
ぼくの友人や知り合いからも、
ご家族や大切な方を見送ることにまつわる話を
お伺いすることが増えてきました。
ちょうど今日も、そんなやり取りをしていました。
だからこそ、このタイミングなのかな?という直感があり、書いてみることにしたのです。
そしてもうひとつ、
やはり父の件も大きいのだと思います。
父の件があってから、
ぼくにとって「死」というものが、
自分の人生の中に少し近づいてきた感覚があります。
もちろん、ずっと前から
人は死ぬものだと知っていました。
でも、それを知識として知っていることと、
身近な人の身体が変わっていく姿を見ながら、
肉体としての有限さに直面することは、
まったく質感の異なる体験でした。
父の姿を見るたびに、
身体が変わっていくこと、
できていたことができなくなっていくこと、
会話の形が変わっていくことに、
何度も触れ続けています。
そのたびに、
いのちはいつも同じ形でここにあるわけではないのだと、
頭ではなく、身体や魂で受け取っているような感覚があります。
ただ、この感覚は、
一概に不快と呼べるものでもありません。
もちろん痛みはあります。
寂しさもあります。
受け止めきれない感覚もあります。
でも同時に、
どこか深い真実を突き付けられているような感覚もあります。
そんなことを、
少しずつ感じるようになりました。
そして最近、
ぼくのライフテーマのひとつとして、
「死の扱い方」や「死との向き合い方」が
あるのかもしれないと
感じていることも影響しています。
見えないものを扱うこと。
魂やエネルギーに触れること。
いのちの奥にある痛みや真実に触れること。
そうしたことを続けていく中で、
避けて通れないテーマとして、
「死」というものが少しずつ浮かび上がってきている。
そんな感覚があります。
死は誰にでも訪れるものです。
でも、ふだんの生活の中で、
死について感じられる場所は、
決して多くないと感じています。
だからこそ、
亡くなった方の魂にも、
残された側の想いにも、
どちらにも静かに触れられるスペースがあることが、
とても大切なことなのかもしれない。
いまのぼくに訪れているこれらの感覚は、
はっきりとした確信ではなく、
予感のようなものです。
でも、その予感があるからこそ、
今回このことを書いてみようと思ったのかもしれません。
ラストライツの性質上、
他のエナジーワークやセッションよりも、
ご紹介のタイミングが少し難しいところがあります。
必要になった時には、
すでに心も身体もいっぱいいっぱいで、
何かを探したり、時間を取る余裕がないことも多いと思うからです。
だからこそ、
こうして前もっておたよりの中で書いておくことで、
いざ必要になったタイミングで、
ふと思い出してもらえたらいいなと思いました。
人を見送るとき、
残された側には、本当にいろいろな想いが残ります。
それは、誰かに話せるものばかりではありませんし
すぐに言葉になるものばかりでもありません。
ありがとう。
ごめんね。
もっと話したかった。
もっと何かできたんじゃないか。
あの時のことを、まだ受け止めきれていない。
そうした言葉になるものもあれば、
言葉にすらならないものもあります。
ラストライツでは、
そのすべてを無理に言葉にしたり、整理しようとはしません。
ただ、そこにあるものを、
そこにあるものとして認めていく。
悲しみを早く終わらせるためではなく、
悲しみの中にある愛やつながりに、
そっと触れていく。
そんな時間でもあるように感じています。
このラストライツ、
ぼくは普段のセッションで涙を流すことはあまりないのですが、
このセレモニーに限っては、
涙が流れることが多いです。
それは、慈しみの涙でも、
悲しみの涙でもなく、
美しさの涙です。
美しい、という言葉を使うことに、
少しためらいもあります。
死は、残された人にとって、悲しいものです。
痛みもあります。
後悔もあります。
もっとこうしてあげられたのではないか、
という想いも出てきます。
でも、それでも、
魂が肉体を離れていくプロセスには、
どこか言葉にしきれない静けさと美しさがある。
それは、悲しみの奥にある美しさ、
という方が近いのかもしれません。
ある意味では、
肉体のエネルギーがないからこそ、
普段のエナジーワークよりも
純粋にエネルギーが見えるような感覚もあります。
亡くなった方の魂。
残された方々の想い。
そして、それを見守っているぼくたち自身。
その場にいるすべての人のあいだで、
何かがゆっくりとほどけていくような感覚があります。
この体験は本当に言葉では表現しがたく、
その時々でも感触が違います。
だから、うまく説明しきることは難しいのですが、
魂の深いところで、
何かが深く癒されていく時間だと感じています。
ぼくにとってラストライツは、
死を終わりとして閉じるためのものではなく、
その人の魂の旅に、 SPIRIT TO SPIRIT HELLO、つまり魂から魂へのメッセージを送り、受け取る時間です。
いま必要な方に、
無理に届けたいわけではありません。
でも、いつか皆さんや、
皆さんの大切な人が、
誰かを見送る時間に触れることがあったとき、
こんな見送り方もあるんだなと、
ふと思い出してもらえたら嬉しいです。
ラストライツはオンラインでも可能です。
ご家族の方と一緒に受けていただくこともできます。
特に費用はいただいていませんので、
そのあたりはお気になさらず。
もし必要なタイミングが来たら、
このおたよりに返信する形でも、メッセージでも、
遠慮なくお声がけ頂ければと思います。
また、ふと思いついたら、おたよりしますね。
キクティー


キクティーさん、「ラストライツ(Last rites)」という儀式のようなものがあるのですね。心がざわついていた時期なのですが、メールを読んで、心を静かにする時間を持てました。次のメールも楽しみにしています☺️